第88回 鎌倉怪談巡礼 其之Ⅱ

今回は新たな〈怪談の土壌〉を求めて東の古都・鎌倉にフォーカスする。
六月の第八十七回例会の堤邦彦報告では古典的霊異を概観した。続く七月第八十八回例会は、よりマニアックな「塔の辻」の由来をとりあげ、鷲の難にあって骨肉四散した幼児の供養をめぐる話の成り立ちを探った。
由比ガ浜大通りに程近いささめ笹目ヶやつ谷の「塔の辻」の石碑によると、由比の長者・太郎太夫時忠の三歳になる娘が鷲に襲われ、無残に食い荒らされ、ばらばらになった体が鎌倉一円に散った。悲しんだ両親は涙にくれながら辻々に供養塔を建てて回ったという。
愛児四散の悲話は、近代以降も鎌倉市民の心意に深くかげ翳を落としていた。金沢街道の「魔の淵のお地蔵様」(雪の下)に、塔の辻説話との結びつきが語られているのはその証しである。人を取る化け物の棲む魔所として怖れられた鎌倉宮近くの川渕に、杉本寺の和尚の発願で地蔵尊像が建立されたのは、大正年間の事であった。このあたりは昔から祟りが絶えず、田畑を耕作すると災いに見舞われるため、だれも手を付けない呪われた土地となった。そうしたオソレの心意伝承を代弁するように、地元の噂に「ここは昔、鎌倉の染谷太郎太夫時忠の娘がわしにさらわれたとき、その血がしたたり落ちた所」との言い伝えがささやかれた(『かまくら子ども風土記』一九五七、鎌倉市教育委員会編)。時忠娘の惨劇は、魔の淵にまつわる不吉な物語の前奏曲のごとくに土地の人々の心意に重低音を響かせていた。
 ところで、鷲につかまれた幼児といえば、奈良東大寺の高僧・ろう良べん弁(六八九~七七四)の逸話が思い浮かぶ。一説に相模の出身ともいう良弁の史伝では、金色の鷲のために遠く奈良まで連れ去られた子供は、杉の大木に掛っているところを覚明上人に救われ、のちに東大寺の高僧となる。。この説話は、やがて室町末の『相州大山縁起』に取り込まれ、太郎太夫時忠と息子の良弁をめぐる劇的な再会と大山開創の大団円を語る縁起絵巻に展開していく。我が子を探して上方に至った時忠は、淀の渡しの船中で鷲の魔手から救われた良弁の奇しき因縁を耳にして東大寺を目指し、立派に成長した息子とめぐり会う。芝居の『良弁杉由来』に脚色された波乱万丈の物語の源流が『大山縁起』のクライマックスに見て取れる。
 もっとも、これらの伝承はあくまでも高僧の名声をことほぐ宗教物語であって「怪談」ではない。
鷲につかまれた幼児の話が五体四散の血なまぐさい奇談に転生し、「魔の淵のお地蔵様」の凶事の遠因として語られるようになったのは、いかなる背景によるのか。そう考えてみる時、長者の娘の残骨を埋め込む観音像の霊験が近世中期鎌倉の寺院縁起に散在することは、良弁杉伝説から派生した鎌倉怪談の原初の姿を彷彿とさせる。
 鶴岡八幡宮の裏の山手に西御門・来迎寺という時宗寺院がある。鎌倉一美しいとされる寺蔵の如意輪観音は、かつて源頼朝の持仏堂(法華堂)にあったが、明治の廃仏毀釈を経て今は来迎寺に移管されている。この観音像について貞享二年(一六八五)刊の『新編鎌倉志』は、亡くなった娘の遺骨を観音像の腹中に納めて菩提を弔ったとする。十七世紀後半になって、良弁伝説に見当たらない残骨供養の説話が生成し、如意輪観音の由来譚として土地に定着していく。鎌倉怪談の原型を寺院縁起の世界に見ておきたい。
 良弁をめぐる高僧伝説が、皆人の涙を誘う愛児残骨の因縁に変遷した背景には、日常的に猛禽の脅威にさらされたやと谷と浜辺の生活感が関わるのかもしれない。怪異は人の心と暮らしのはざまに姿を顕わすものである。


図1 現存する搭の辻の石塔(左下、鎌倉市由比ガ浜)

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開催日:2024年06月30日

会場(もしくはzoomミーティングID):ID: pass:

発表者:堤邦彦